2018年 炎の祭典・大文字焼き 京都だけではない!全国10選

夏の風物詩として、京都五山の五山送り火(大文字焼き)をご存じのことと思います。

今年の夏休みには京都の大文字焼きに行きたいと思い、調べてみました。

なんと京都以外にも全国各地10カ所以上でこうした行事が行われています。

まずは京都の大文字焼きを見て、来年は箱根の大文字焼きを見に行こうなんて思いを馳せています。

「そうだ、浴衣を着て京都大文字を見に行こう」なんて、勝手にキャッチコピーを作って盛り上がっています。

皆さんも全国大文字焼き制覇を企画してみてはいかがですか?

その大文字焼きについて、「行事の持つ意味」、「その歴史」は奥行きが深いことが分かりました。

今回、これらについてまとめましたので、これから夏を迎える予備知識としてご覧いただければと思います。

 

五山の送り火(京都大文字焼き)

やはりなんと言っても有名なのは京都の大文字焼き(京都の方は、他山との違いと尊称の意味も含めて、古くから山そのものを「大文字さん」と呼ぶそうです)でしょう。

どうですか、この写真を見ると何とも雄壮で一度は見てみたいと思いませんか?

大文字焼き4連続

祇園祭と並び、8月16日夜、夏の夜空にくっきりと浮かび上がる「五山の送り火」は、京都の夏を彩る風物詩として全国的にも有名です。

「五山の送り火」は「大文字」と呼ばれる東山如意ヶ嶽のものが最もよく知られ、他に松ヶ崎西山・東山の「妙・法」、西賀茂船山の「船形」、金閣寺付近大北山(大文字山)の「左大文字」及び嵯峨仙翁寺山(万灯籠山・曼荼羅山)の「鳥居形」の五つを指します。

それでは、その各々について見ていきましょう

大文字山(だいもんじやま)東山如意ヶ嶽

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画像引用元:佐野宇久井氏撮影

所在地:京都市左京区浄土寺七廻り町(じょうどじ ななまわりちょう)

火床:75か所 上の写真に見える火柱の数です 点火は午後8時0分

大きさ:一画80m(45間・19床)、二画160m(88間・29床)、三画120m(68間・27床)

保存会:浄土院の(元)檀家による世襲。

もともとは一帯の山塊を「如意ヶ嶽」と呼んでいましたが、現在は火床がある西側の前峰(465.4m)を「大文字山」と呼び、最高点である主峰(472m)を「如意ヶ嶽」と呼びます。

特に「左大文字」と区別するときは「右大文字」・「右の大文字」とも言います。

大の字の中央には大師堂と呼ばれる、弘法大師を祀った小さなお堂があります。

登り口は、送り火の時にも使われる銀閣寺の北側からのものが主ルートです。

大文字山(如意ヶ嶽)の地域の人には、他山との違いと尊称の意味も含めて、古くから山そのものを「大文字さん」と呼ぶ人も多いのです。

火床は、古くは杭を立て松明を掲げたものでしたが、1969年以降は細長い大谷石を二つ並べた火床の上に、井桁に薪を組むかたちとなっています。

 

 

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大文字送り火は従来から護摩木に自分の名前と病名を書いて火床の割木の上に載せて焚くと、その病が癒るという信仰があります。

また消炭を持ち帰って粉末にし服すると、持病が癒るともいわれており、15日から16日にかけて先祖の霊や生存する人の無事息災が護摩木に記されます。

この護摩木は送り火の点火資材として当日山上ヘ運ばれ、当夜7時から山上の弘法大師堂でお燈明がともされ、大文字寺(浄土院)住職及び会員並びに参詣者等の有志により般若心経があげられます。

その後このお燈明を親火に移し、午後8時に合図により一斉に送り火が点火されます。

第二次世界大戦(太平洋戦争)中である1943年には主に灯火管制的見地から送り火が中止されましたが、代わりに早朝に白いシャツを着た市民(地元の第三錦林小学校の児童ら)が山に登り、人文字で「大」を描き、英霊にラジオ体操を奉納しました。

英霊に児童達がラジオ体操を奉納したのですが当時の状況を反映していますね。

翌1944年にも錦林小学校、第二 – 第四錦林小学校児童がやはり人文字を描いていますが、1945年も送り火は行なわれず、終戦の翌年、1946年に再開されました。

また、日清戦争戦勝時には「祝平和」の文字が灯されたほか、日露戦争にちなんで点火されたこともあります。

大文字は市内のどこからでも眺望できる位置であるが、如意ケ嶽が、相国寺の領地であったためこの寺の方を正面に照らしたともいわれ、あるいは足利家が最も眺めのよいように―条通を正面にしたとか又、京都御所の池泉にうつるようにしたとの諸説があります。

 

松ヶ崎妙法

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画像引用元:佐野宇久井氏撮影

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画像引用元:佐野宇久井氏撮影

所在地:(妙)京都市左京区松ヶ崎西山、(法)京都市左京区松ヶ崎東山

山名:(妙)西山(135m)、(法)東山(186m)。

西山については万灯籠山、東山については大黒天山とも呼ばれ、二山合わせて妙法山とも呼ばれています。

火床:(妙)103か所、(法)63か所 点火は午後8時5分

大きさ:(妙)最大100m弱、(法)最大80m弱

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保存会:涌泉寺の(元)檀家による世襲。

二山二字であるが、一山一字として扱われます。

涌泉寺の寺伝によると、徳治2年(1307年)、松ヶ崎の村民が日蓮宗に改宗したとき、日像が西山に「妙」の字を書き、下鴨大妙寺の日良が東「法」の字を書いたということです。

「妙」の字付近は、近くに京都市水道局松ヶ崎浄水場の配水池があるため、一般人は立ち入り禁止になっています。

「法」では家ごとに担当の火床が決まっているが、「妙」では火床の担当を町ごとに順繰りで交替し、うち2基は浄水場の職員が担当します。

舟形万灯籠

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画像引用元:佐野宇久井氏撮影

他の3文字に囲まれ何ともかわいらしい(失礼)カタチをした船で親しみが持てます。好みです!

船の形は、承和14年(847年)、唐からの帰路に暴風雨にあった、西方寺の開祖・慈覚大師円仁が「南無阿弥陀仏」と名号を唱えたところ無事到着できたという故事にちなんでおります。奥が深いですね!!

画像引用元:佐野宇久井氏撮影

所在地:京都市北区西賀茂船山(にしがもふねやま)

山名:船山(ふなやま)。万灯籠山・西賀茂山とも呼ばれる。

火床:79か所 点火は午後8時10分

大きさ:縦約130m、横約200m

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保存会:西方寺の(元)檀家による世襲。

左大文字

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画像引用元:佐野宇久井氏撮影

所在地:京都市北区大北山鏡石町(おおきたやまかがみいしちょう)

山名:大文字山(または大北山)[12]。区別のため左大文字山とも呼ばれる。標高約230メートル[13]

火床:53ヶ所 点火は午後8時15分

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大きさ:一画48m、二画68m、三画59m

保存会:法音寺の(元)檀家による世襲。35世帯(1990年)

1658年の『洛陽名所集』には記載が無く、1673-1681年の『山城四季物語』に記載があることから、この間の期間に始まったのではないかとみられています。

成立について特に伝承や記録などは残っていません。

この山は険しい岩山であり、かつては杭を立てた上にかがり火のかたちで送り火を行っていました。

固定された火床もなく、かつては荒縄を張るなどして形を決めていたため、毎年形が変わっていたと言われています。

2011年現在は栗石とコンクリートで作られたの火床が使用されています。

また、大文字は一斉点火であすが、左大文字は筆順に沿って点火されます。

1960年(昭和35年)に、火床を「大」の字各方面に2床ずつ、合計10床増加させました。

8月の上旬には、保存会の手により、法音寺に高燈籠が掲げられます。

鳥居形松明

所在地:京都市右京区嵯峨鳥居本一華表町(さが とりいもと いっかひょうちょう)

山名:曼荼羅山(まんだらやま)。あるいは仙翁寺山(せんおうじやま)・万灯籠山。

火床:108か所 点火は午後8時20分

大きさ:縦76m、横72m

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保存会:他山と違い唯一、寺の檀家の世襲ではなく有志によります。

松ヤニが入った松を使うため、火の色が他山とは少し違いオレンジに近い色になっています。

火床は、他山と違い、木を組むのではなく、松明をそのまま突き立てる方法です。

親火床から松明を持って各火床に走るので「火が走る」とも称されています。

さて5カ所について説明しましたが、これらを見渡せるとっておきのベストスポットはどこでしょうか?

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画像引用元:京都新聞

参考までに点火の様子と5山の様子が動画として京都新聞より提供されておりますのリンク先を掲載します。

迫力ありますよ!!  リンク先⇒ 五山送り火 大文字の点火(2015年8月16日)

 

大文字焼きの意味

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画像引用元:いちみのまとめも

皆さん先祖様をお迎えするためにお盆の季節になると8月13日に迎え火、15日に送り火をたいた経験がありますでしょうか。

私は、子供の頃に家族一緒に行った覚えを鮮明に覚えていますが、最近やっておりません。

そのときに、茄子などの果物と割り箸で動物の形を作ってお供えした記憶があります。

だんだんこうした風習から遠のいているのは、自分を差し置いて言うのもおかしいですが、残念だなと思います。

もともとお盆とは中国から伝来された仏教行事のひとつ盂蘭盆(うらぼん)の略称で、日本では盂蘭盆会(うらぼんえ)と言われています。

語源は梵語のウランボーナで、逆さ吊りの苦しみをあらわしています。

ある時、釈迦の十六弟子の一人である目連は、自分の生母が餓鬼道に落ち、逆さ吊りに苦しんでいる事を霊感しましたので、父母の霊を救うために百種の供物をしたというのが盂蘭盆の始まりとされています。

6世紀に中国では梁の武帝が初めて実際の盂蘭盆を執り行い、日本では7世(657)に齋明天皇が初めて行ったと日本書紀に伝えられています。

世界の中において「元来日本は、祖先崇拝の強いところであった」と日本神話の研究などから考えられており、以前から行われていた祖先供養の行事に盂蘭盆が加わり、日本独特のお盆行事へ変化していったと考えられています。

8月13日に迎え火を燃やし祖先の霊を我が家にお迎えし、15日に送り火を燃やして祖先の霊が黄泉の国(よみのくに)へと帰るのをお送りするのが日本におけるお盆の習わしで、15日がお盆当日となります。

この迎え火と送り火の事を、主に門辺で燃やしていたところから門火と言います。

大文字の送り火も、この門火のひとつとされています(納得!)。

霊(み魂)の帰っていく黄泉の国(よみのくに)とは、いったいどこにあると考えられていたのでしょうか。

それは、海の彼方とも、高天原(たかまがはら)とされる天上とも考えられていましたが、平安京の人々は山奥(そしてそれに続く天上)にあると考えていた事が、万葉集にいくつか残る死者を悲しむ挽歌から推測できるそうです。

こうしたことから山中で送り火を燃やすという風習が定着していったものと考えられています。

いくつかの文献が戦国時代(1500年代)以降の京のお盆の様子を伝えております。

それによりますと当時は、お盆のはじめから提灯や燈籠で街々や家を飾り、大燈籠の回りでは人々が踊りに興じていたとの事です。

鴨川には数多くの人が出かけ、松明を空に投げて、霊を送ったとされており、その様子は瀬田の螢のように美しいと記されています。

1567年に上洛を果たした織田信長もその華やかさを見てたいそう喜び、お盆の時に安土城を無数の提灯で飾り、武士達が松明を手に舟で琵琶湖にのり出し、光の祭典を興じたと記されています(何とも風流ですね~)

このように当時の京のお盆は、まさに火の祭典だったと言えます。

 

その他の場所での大文字焼き

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